偏印:身を生じるが、多ければ食を奪う
偏印は身を生じ、陰陽が同じ行である。甲木の偏印は壬水である。水は木を生む。扶抑では先に身を助ける。正印と同じ側である。開く道はやや偏る。正途の学問ではなく、直感、脇道、ふと通る種類である。
身を助けることには上限がある。身がすでに旺じて、印がさらに多ければ、気は生じられて壅り、出路は減る。偏印にはもう一層ある。食神を圧する。甲の食神は丙火、壬水は丙火を克す。印が多く食神を克し尽くすのを、古くは梟神奪食と言う。ここでは条件として読む。呪いとしては読まない。身を生じる水が、産出を覆うほど強ければ、事は考えること、学ぶことに止まり、渡せるものができなくなる。
だから偏印は小人ではない。偏門だから財をなすのでもない。身が弱ければ、先に生扶である。身が旺じているとき、または食神がまさに出路であるとき、生じすぎるなら、その泄の道を奪っていないかを見る。ラベルは「脇の学び、直感」と書いてよい。主断は、身が生を要するのか、泄を要するのかである。
甲が壬を見て初めて偏印である。奪食は、壬が本当に丙を克して初めて成立する。盤に食神がなければ、奪う相手がない。偏印は身を生じる一事だけが残る。偏印を見ただけで、産出が取られたと先に書かない。
出典は『子平真詮』の偏印を論じた箇所。本文は一念自身の読み方である。